初代 宮永東山 月白瓷水草文 皿 5客 共箱 岡倉天心の助手 粟田焼復興 幸田露伴 錦光山 浅井忠真と親交 青磁の東山 古美術 日本 真作保証 ご覧頂きありがとうございます。 青磁の東山と称せられた、初代 宮永東山の大変貴重なお品です。 月白瓷という大変美しい名前が箱書きにあります。 皿には僅かに点状の汚れ、1箇所釜傷(画像6)と思われる箇所、底面に若干のスレがありますが、それ以外は大変綺麗な状態です。 共箱には一部破損があります。 詳細は画像を見てのご判断ができる方のみ宜しくお願い申し上げます。 サイズ 径 約7.5cm 高さ 約2.4cm 石川県大聖寺藩士の家に生まれる。本名は剛太郎。明治18年(1889)東京ドイツ全修学校卒業。海外貿易に従事するために日本古美術商として西欧に知られた横浜ウィンクレル商社に入社。同20年に退社して東京フランス語学校に入学。卒業後は語学力を買われて東京美術学校校長・岡倉天心の助手を務め西欧諸国の美術施設の調査に従事した。同30年(1897)農商務省パリ万国博覧会臨時事務所に勤務、同32年に現地に派遣される。その折、7代錦光山宗兵衛と知り合い、帰国後京都に移って錦光山工場の美術顧問となる。これ以後、陶磁器の研究に取り込み、明治の京焼の改革に取り組んだ。同36年窯業化学者中沢岩太、洋画家浅井忠の肝いりで日本最初の陶磁器意匠研究団体の遊陶園に参加。大正時代には農商務省展に参加、昭和には帝展で活躍した。青磁をもっとも得意とし「青磁の東山」と称せられた。明治42年伏見区深草に築窯し、以後は同地で作陶して、幸田露伴が命名した東山をもって陶号とした。 1901年(明治34)帰国。錦光山工場顧問として京都東山区粟田口三条に移住。作陶界に進む。粟田焼の意匠改良を一任される。 1909年(明治42)錦光山工場を退き、伏見稲荷山麓の深草開土の地に東山窯を築窯。東山の陶号は幸田露伴の命名。『孟子』の「孔子登東山」からの選。幸田とは東京仏語学校時代に約2年間、居を共にした友人である。 1929年(昭和4)第10回帝展「二彩花瓶」入選。第11回帝展「水青磁華文五角花瓶」入選、第14回以後は無鑑査となる。 1938年(昭和13)住居を粟田口三条から深草の東山窯に移す。 1941年(昭和16)12月逝去。